【修羅場】祖父母と大喧嘩してる母「もうあなた達とは暮らせない!出てくわ!」祖父母「出てけ!お前なんかいらん!」父「バカなことをいうな!」
234: 名無しさん@おーぷん 21/12/01(水) 02:01:22 ID:vc.aw.L1
勝手に自己語りをします。
17才から俗に言うサバイバル生活をして生き延びた。私の地元は西日本の山間部。集落も家が点在してて小中が一緒の小さい木造の平屋だった。
私は祖父母と両親で暮らしてて、周辺には年の近い子もおらず、ひとりではなれた地域の前述学校に行ってた。中1の時、祖父母と母が大喧嘩して母が家を出て行き
父が追掛けて出て行った。私は祖母に「お前はここで暮らす」と言われ、両親とは本当にそれっきり。今も所在は聞いたが会って無い。
周りは自然に囲まれ、あると言ったら祖父のラジオだけ。電気も来ていたが冬のある日、降雪で電線が切れたらしく使えなくなった。
中3で進路を担任に聞かれたが祖母が「自宅で働く」と言ったらしく、田舎なのでそれで終わった。私はテレビも学校で教わって知ってた程度だったし興味も無かった。
なので世界も全く知らなかった。17才の夏、祖父が倒れ祖母と一緒に町に降り、そのまま帰って来なかった。私のひとり生活が始まった。それまでほぼ全て
自給自足だったので米も野菜も味噌もあったし、年に数回程度、近隣の人や役場の人が訪ねてきて色々貰う事もあったので、足りてた。秋には山で捕れた
イノシシやシカの肉も分けて貰えたので、冷凍するか燻製にしてた。髪の毛は適当に切って、服は祖父母や両親が残して行ったものを利用してた。
21才の夏、畑仕事から昼ご飯に戻ったら、家に知らない外国人男が2人いて、私の食糧や荷物を漁ってた。持ってた鍬を振り上げ大声で怒鳴ったら男が1人向かってきて
揉み合いになって家の前の傾斜を滑り落ちたがその時に頭を打ったようで、気が付いたら真夜中の月明かり。家に戻ると滅茶苦茶に荒らされてた。
使ってたランプがあったので明かりをつけ、片付て布団で寝た。残ってたお金とか色々無くなってたけど知識が無くどうしようも無いので諦めた。多分中国人だった。
23才の春、畑仕事から帰って夕ご飯を作ろうとしてたら聞き慣れないエンジン音がして、久し振りに近隣に住む人ともう一人男性が車で来た。
話を聞くと親戚から頼まれて来た人で、私の生存確認やら祖父母の遺産やら色々説明された。そして次の日私は10年近く振りで山を下り、親戚の叔母に初めてあった。
叔母はその時の私の姿が、まるで昔学校で習った戦時中の人みたいだったと後で言われた。何も知らなかったが祖父母はとっくに亡くなってて、私が暮らす家は
誰も相続しなかったので放置されてたが、どうやら私子がまだ一人で暮らしているようだと風の噂で聞いた叔母が人を頼んで確認させ、私が居たので会いに来てくれた。
叔母は母の末妹で、母は祖父母から苛められていたようで、何も知らなかったし、両親は祖父母宅を出てから色々あって外国へ移住したと聞いた。
叔母から「私子ちゃんがこのままでいいと思うなら私は帰るけど、もし私の所に来る気があるなら、一緒に暮らさない?」と言われ、私はどうしたらいいか判らないと
答えた。しばらく経って叔母が「一度私の家においで」と、そのまま私を連れて車で叔母の住むマンションに連れて行かれた。その時の私のショックは、表現できない。
何も知らなかった女が、いきなり大阪と言う大都会に連れ出された。個人商店や巡回販売車しか知らなかった。コンビニ何て見た事も無かったのに。
叔母は40代で未婚のまま独り暮らしをしてて、結構裕福な生活をしていた。個人経営だけど社長業だったのもある。私はスーパーでの買い物やゴミ出しのルール等から
教わり、叔母の家政婦をしながら様々な事を学んだ。通信教育も受け、高卒認定を取り雄新制大学にも通い、今29才になった。
あの日、23才の5月に伯母の手配した方が来る迄、私は何も知らず山奥で残時代的な生活を送ってた。暗く成ればランプを付けかまどで飯を炊き、湧き水で風呂に入り
山菜や畑で捕れた野菜のみ。田植えは代々祖父母から習った手法。叔母に連れ出されてから一度祖父母宅に帰ったが、たった数年で木に覆われ自然に帰っていた。
今では叔母と一緒にYouTubeを見てラインで学友と交流し、叔母の紹介で彼氏も出来たけど、時に今夜のような静かな夜は、満点の月明かりの静寂に満ちた山の夜が
懐かしく思う。全てを知った今では、もう二度とあんな生活は出来ないけどw
17才から俗に言うサバイバル生活をして生き延びた。私の地元は西日本の山間部。集落も家が点在してて小中が一緒の小さい木造の平屋だった。
私は祖父母と両親で暮らしてて、周辺には年の近い子もおらず、ひとりではなれた地域の前述学校に行ってた。中1の時、祖父母と母が大喧嘩して母が家を出て行き
父が追掛けて出て行った。私は祖母に「お前はここで暮らす」と言われ、両親とは本当にそれっきり。今も所在は聞いたが会って無い。
周りは自然に囲まれ、あると言ったら祖父のラジオだけ。電気も来ていたが冬のある日、降雪で電線が切れたらしく使えなくなった。
中3で進路を担任に聞かれたが祖母が「自宅で働く」と言ったらしく、田舎なのでそれで終わった。私はテレビも学校で教わって知ってた程度だったし興味も無かった。
なので世界も全く知らなかった。17才の夏、祖父が倒れ祖母と一緒に町に降り、そのまま帰って来なかった。私のひとり生活が始まった。それまでほぼ全て
自給自足だったので米も野菜も味噌もあったし、年に数回程度、近隣の人や役場の人が訪ねてきて色々貰う事もあったので、足りてた。秋には山で捕れた
イノシシやシカの肉も分けて貰えたので、冷凍するか燻製にしてた。髪の毛は適当に切って、服は祖父母や両親が残して行ったものを利用してた。
21才の夏、畑仕事から昼ご飯に戻ったら、家に知らない外国人男が2人いて、私の食糧や荷物を漁ってた。持ってた鍬を振り上げ大声で怒鳴ったら男が1人向かってきて
揉み合いになって家の前の傾斜を滑り落ちたがその時に頭を打ったようで、気が付いたら真夜中の月明かり。家に戻ると滅茶苦茶に荒らされてた。
使ってたランプがあったので明かりをつけ、片付て布団で寝た。残ってたお金とか色々無くなってたけど知識が無くどうしようも無いので諦めた。多分中国人だった。
23才の春、畑仕事から帰って夕ご飯を作ろうとしてたら聞き慣れないエンジン音がして、久し振りに近隣に住む人ともう一人男性が車で来た。
話を聞くと親戚から頼まれて来た人で、私の生存確認やら祖父母の遺産やら色々説明された。そして次の日私は10年近く振りで山を下り、親戚の叔母に初めてあった。
叔母はその時の私の姿が、まるで昔学校で習った戦時中の人みたいだったと後で言われた。何も知らなかったが祖父母はとっくに亡くなってて、私が暮らす家は
誰も相続しなかったので放置されてたが、どうやら私子がまだ一人で暮らしているようだと風の噂で聞いた叔母が人を頼んで確認させ、私が居たので会いに来てくれた。
叔母は母の末妹で、母は祖父母から苛められていたようで、何も知らなかったし、両親は祖父母宅を出てから色々あって外国へ移住したと聞いた。
叔母から「私子ちゃんがこのままでいいと思うなら私は帰るけど、もし私の所に来る気があるなら、一緒に暮らさない?」と言われ、私はどうしたらいいか判らないと
答えた。しばらく経って叔母が「一度私の家においで」と、そのまま私を連れて車で叔母の住むマンションに連れて行かれた。その時の私のショックは、表現できない。
何も知らなかった女が、いきなり大阪と言う大都会に連れ出された。個人商店や巡回販売車しか知らなかった。コンビニ何て見た事も無かったのに。
叔母は40代で未婚のまま独り暮らしをしてて、結構裕福な生活をしていた。個人経営だけど社長業だったのもある。私はスーパーでの買い物やゴミ出しのルール等から
教わり、叔母の家政婦をしながら様々な事を学んだ。通信教育も受け、高卒認定を取り雄新制大学にも通い、今29才になった。
あの日、23才の5月に伯母の手配した方が来る迄、私は何も知らず山奥で残時代的な生活を送ってた。暗く成ればランプを付けかまどで飯を炊き、湧き水で風呂に入り
山菜や畑で捕れた野菜のみ。田植えは代々祖父母から習った手法。叔母に連れ出されてから一度祖父母宅に帰ったが、たった数年で木に覆われ自然に帰っていた。
今では叔母と一緒にYouTubeを見てラインで学友と交流し、叔母の紹介で彼氏も出来たけど、時に今夜のような静かな夜は、満点の月明かりの静寂に満ちた山の夜が
懐かしく思う。全てを知った今では、もう二度とあんな生活は出来ないけどw